あたたかい笑顔が印象的な中島正和さん。テニスに夢中だった少年はやがてテニスの世界で仕事を始めるのだが……40代を迎えるにあたって、その人生に大きな転機が訪れたという。テニスの世界からフォトグラファーの世界へ。“好き”を仕事にし続けてきた中島さんが、「40代からの挑戦」について語ってくれた。
テニスの世界からカメラの世界へ 背中を押してくれた妻
20歳ごろ、スキーの写真を撮ってみたいと思ったことがきっかけです。
僕は中学・高校とテニスを本格的にやってきました。プロの選手にこそなりませんでしたが、当時はスポーツショップで働きながらテニスコーチをしていました。
冬になると職場の仲間とスキーに行くことが増えたのですが、彼らは国体選手、レーサー、指導員免許を持っているようなエキスパートの集まりで。本格的にスキーをやってきたということで、スキー姿がカッコよかったのです。そんな仲間の写真を撮りたいなと思いました。
色々と試してみたのですが、コンパクトカメラでは素早い動きに反応できなかったり、望遠で近くに寄れなかったりしてうまく撮れないので、思い切ってフィルムの一眼レフを購入しました。
僕も一緒に滑りながら撮っていたんですよ(笑) かっこいい写真が撮れたりすると仲間にも喜んでもらえて、嬉しかったです。
はじめはごくごく普通に、家庭内で写真を撮っていました。
結婚して、長男が生まれて、子どもの写真を撮るにあたって、どうしたら上手に撮れるのかな?? と自分なりに勉強するようになって。カメラ雑誌を手に入れて、ポートレート撮影にハマったのが大きかったと思います。
気がつくと、奥深いカメラの世界の魅力に惹き込まれていきました。
当時は40歳を目前にして、将来への不安も感じ始めていた頃。
それまでは体力にも自信がありましたし、20代・30代とテニスショップで働きながらテニスコーチをする日々にも満足していました。でも、40代を迎えるにあたって、体力の限界も感じるようになって……このままで良いのかなという不安を抱えていました。
別の道にチャレンジするなら、今しかないと思いました。
趣味としてカメラを楽しむと、いろいろな出会いもありました。
カメラの練習を始めたころは、ほとんどが1人。仕事終わりに夜景を撮りに行ったり、モデル撮影をしたり、独学でカメラを楽しんでいましたが、ひとりでは物足りないなと感じることもあって。SNSを通して写真好きが集まるコミュニティに参加するようになって、プロアマ問わずたくさんのフォトグラファーと出会いました。
そこで出会ったプロのフォトグラファーがスタジオを開業するというタイミングで、「フォトグラファーとしてやってみたい」と志願して、修行させてもらうことになりました。
そうやって前を向いて動き始めると、風向きも変わってくるもので。当時子どもが通っていた保育園から撮影を依頼してもらったり、他の写真館からも手伝って欲しいと頼まれたりして、プロのフォトグラファーとしての道を進んでいくことになりました。
妻に相談をしてみたら「好きなことをした方がいい!!」と背中を押してくれたんです。「駆け出しフォトグラファーで収入が足りないなら、私が助けるから!!」とまで言ってくれて。
こんな風に応援してもらえるなら、チャレンジしてみようと思いました。
得意なテニスが仕事になって、当時もやりがいを持って働いていましたが、店長という仕事は責任も大きくて……とにかく忙しかったんです。
家庭との両立とは程遠い働き方をしてきましたから、働き方を見直すという意味でも、良いタイミングだったのだと思います。
そうですね。フォトグラファーに転向したことで、働きやすさが随分と改善されました。子どもたちの学校行事なんかにも行けるようになって、子育ての環境も大きく変化しました。
家族との時間も大切にできるようになって、みんながハッピーになれたと思います。
僕は「テニス」で生きてきましたから!!テニスで学んだことが大いに活かせたと思います。
小学校から本格的に競技テニスをやってきて中、大変なこともたくさん乗り越えてきました。
テニスの試合でコートに立つと、そこからは一人で戦わないといけません。苦しい場面での忍耐力、物事を瞬時に決める判断力、気持ちの波を整えて切り替える精神力、これらが鍛えられたのが大きかったと思います。
写真にバリエーションを! 撮影のこだわりは自分から「動く」こと
スタジオで経験を積んだ後、フリーのフォトグラファーになって、これまでの人脈からお仕事をいただくことが増えてきました。子どもたちの通っていた保育園からも声をかけていただきましたし、自然とスクールフォトの世界にいたように思います。
リンクエイジとの出会いは10年ほど前です。交流のあったフォトグラファーが体調不良で撮影に行けないというので、ピンチヒッターで撮影に入らせてもらったのがきっかけです。
もちろん、楽しいですよ!!!
僕の拠点は九州の北の端ですが、ここ数年は九州全体や山口県など、出張の機会も多くなってきて、充実しています。移動にもこだわりがあって。出張先には公共交通機関ではなく、車で行くことにしています。例えば、宮崎県でお仕事が入ると、往復で700キロなんてことも!! それでも、色々な土地に出向けることは新鮮ですし、なんだかんだ楽しくお仕事させてもらっています。
例えば”食事”です。園の先生のおすすめで地元のおいしいお店を教えてもらったり、お気に入りのお店を見つけたりして楽しんでいます。地元ならではのお店が見つかると、行く度に通ってみたり(笑)楽しみも倍増します。
移動は夜中や明け方が多いので、満点の星空や日の出、雲海など、自然の美しさを満喫できるのもいいですよ。鹿やタヌキ、キツネなんかにも出会ったりして、地方には地方の魅力があるなと実感しています。
とにかく「動くこと」を大切にしています。止まって待っていても良い写真は撮れないですから。
子どもたちのありのままの姿を撮るためには、距離感を大切にしながらも、いろいろなアングルから撮れるようにフォトグラファーが動くしかないと思うんです。自分から撮りに行くというイメージです。
一つのことをしていても、角度によって表情も違いますし、こっちの角度からとあっちの角度からでは見えるものも違う。同じような角度で何枚も撮るよりも、いろんな写真があった方が見る側も楽しいですよね。
そういった雰囲気の違う写真が複数枚撮れると、写真を「選ぶ」という選択肢ができますから、本人やお家の方にとってお気に入りの写真を見つけてもらえるのではと思っています。
僕の妻……実は保育士なんです。ですから、先生の立場から見たフォトグラファーへのフィードバックというのが、とてもリアルなのです。
園に来ていたフォトグラファーがこんなだったよ〜なんて話をすることもあって、先生たちからこんな風に思われることがあるのだなと、学ぶことも多い。現場では妻からのアドバイスを参考にすることもあります。
例えば、『笑わない子どもたちに対して「笑って〜、笑って〜」なんて言っても、子どもたちが笑うはずもない。そんな言葉掛けでは受け入れてもらえないよ!! 大事なのは雰囲気だよ!!』なんてことを教えてくれたりするんです。
そこから学んで、僕自身も現場では”楽しい雰囲気”を出せるように工夫しています。
プロとして存在する意味 保護者をうならせる一枚を撮りたい
本来は、お子さんたちの”最高の笑顔”を撮ろうと思ったら、ご家族に勝る撮り手はいないと思うんです。ご家庭の中にいるお子さんというのが一番の自然体ですから。
それでも、プロのフォトグラファーとして存在する以上は、ご家族をもうならせる一枚を撮らないといけないと思うのです。
どんな写真を撮れば保護者に喜んでもらえるかな? という視点を、常に持つようにしています。
もちろん、価値観というのは人それぞれですから、”良い写真”というのも人によって違います。
それでも、大切なお子さんの笑顔の写真というのは、きっと特別なものになります。中には一生の宝物になるものだってある。
保護者のみなさんとお話しする機会というのも貴重で、運動会や行事などでお会いすると写真の感想をもらえたりするんです。
「この前の写真、すごく良かったです」とか、「次も楽しみにしています!!」とか、何気なく聞こえてくるコメントが嬉しくて、次も頑張ろうというモチベーションになります。
「子どもの笑顔が最高だった」なんて声を聞くと、そこが一番お届けしたかったところですから、本当に良かったなと思います。
これから先は、妻に恩返しできる人生に
僕にとっての「愛」とは、「喜んでもらえる」写真を撮ることです。
そして、「記憶」に残る写真を撮ることです。
写真を手にした保護者が、「うちの子はなんてかわいいんだ!!」と喜ぶ瞬間というのは、お子さんに対しての愛情が溢れる瞬間だと思うのです。そして、その瞬間が記憶に残っていく。
僕自身も子育てを経験して、幼かった我が子たちの写真を見返すと、その当時の気持ちを思い返すことができて、何度でもあたたかい気持ちになれます。
写真を通して、いつまでも「愛」を感じてもらえる……写真には、そんなパワーがあると信じています。
これからの人生で一番大切なこと。それは、苦労をかけた家族に恩返しをすることです!
特に妻は、僕の好きなことを応援してくれましたから、僕も妻のやりたいことを応援したいです。
カメラについても、僕は40代からのフォトグラファー。50代になって、ようやく芽が出てきたというところですから。これからも、目の前の仕事をしっかりとこなして、地道にコツコツと積み上げていきたいです。
きっと写真なら70歳、80歳と歳を重ねても撮れる。
生涯現役を目指しながら、40代からでもチャレンジできるんだということを、背中で語れるくらいになりたいです。
40代からの挑戦
それは想像もつかないほど大変な道のりだったかもしれない
それでも彼がここまで辿り着いたのは苦しい時こそ自分を鼓舞し続ける強さがあったから
“記憶”に残る写真に”愛”を込めて、中島さんは今日も”動く”