「この30年間、カメラしか知りませんから」と話してくれたのは、植原義晴さん52歳。自らを人見知りだと話す植原さんだが、その飾らない笑顔と言葉に安心感を抱く人も多いだろう。30年間、フォトグラファーとして働いてきた植原さんが、カメラと共に歩んできた30年を振り返り、フォトグラファーという仕事の魅力を語ってくれた。
「亡き母の代わりに父を支える」二十歳の決断
私の実家では、父と母が「写真屋さん」を営んでいました。写真を現像したり、スタジオで証明写真や記念写真なども撮影したりしていたので、写真は身近な存在でした。
とはいえ、私はというと、写真の道に進もうとは思っていなかったので、サラリーマンとして外で仕事をしていたこともあります。
ところが、20歳の頃に大きな転機が訪れました。母が亡くなったのです。
母が父の手伝いをして写真屋を支えていましたから、母の存在無しでは写真屋が存続できなくなってしまいます。母が亡くなってすぐの頃は、家業を手伝うことに抵抗もありましたが、この先、誰が父の仕事を手伝うのだろうかということが気にかかるようになりました。
人手が足りなかったということは言うまでもありませんが、当時は妹もまだ高校生だったので、長男として自分がやらずに誰がやるんだという気持ちが大きかったと思います。
一度はカメラとは違う道を歩み始めましたが、最終的には帰る場所を作ってくれた父の優しさに感謝していますし、だからこそ、父を手伝おう、とにかくやってみようという思いになりました。
写真のことは全く知らなかったので、そこから写真の専門学校に通いました。
実家の写真屋を手伝うようになったのは、22歳の頃です。それがフォトグラファーとしてのスタートです。
そうですね。実家の写真屋を手伝いながら写真を撮ることを覚えました。
そうは言っても、手伝い始めた頃は、主にフィルムの現像をしてプリントする仕事でしたので、販路を増やして売り上げを伸ばすためにはどうしたら良いかなど、経営的な視点を持つようになりました。
スタジオで、証明写真や記念写真の撮影にも挑戦していましたが、始めたばかりの頃は、まだフィルム撮影の時代だったので、デジタル撮影が主流の今と比べると、撮れる枚数も少なくて「ただただ撮っている」という感覚でした。
それが、10年ほど前からデジタルカメラで撮影するようになって、撮影するカット数も増えたので、撮れる写真のイメージの幅が広がったと思います。
その頃から、フォトグラファーとして喜びを感じたり、やりがいを実感したりするようになりました。フィルムの時代に比べると、たくさんの写真の中から気に入った写真を選んでもらえるようになったので、お客様の反応も良くて、お客様に喜んでもらっているという実感が持てるようになってきたからだと思います。
全ては良い写真を撮るために。
スクールフォト撮影で鍛える、脱・人見知り‼︎
10年程前、実家の写真屋だけではなく、販路を拡大したかったので、外でもフォトグラファーの仕事をしたいと思うようになりました。そんな中、知人からの紹介でスクールフォトや障害者スポーツと出会って撮影をするようになりました。
不安はありませんでした。というのも、スクールフォトの現場でいい写真が撮れるようになれば、きっとスタジオ撮影にも活かせることがあるだろうと、前向きに考えていたからです。
実家の写真屋でも七五三の記念撮影をしますが、小さな子ども達は撮影中に泣いてしまうことも多いんです。子どもとのコミュニケーションがうまく取れるようになれば、もっと良い写真が取れるはずだと思っていたので、スクールフォトの現場は、子ども達とのコミュニケーション力を鍛えるために、一番適した場所だと思いました。
私は昔から人見知りで、人との対話も得意な方ではありません。ですから、カメラを持つことで、色々な世界に足を運んで、たくさんの人と対話する機会を増やしていこうと思うようになりました。
あると思います。
スポーツ写真は目の前で行われている競技を撮るので、決められた場所からだけでも臨場感のある写真を撮ることができます。
私は主に障害者スポーツを撮影していますが、パラリンピックなど、アスリート達の最高の舞台で、最高の瞬間を撮らせてもらえるということにやりがいを感じます。さらに、メダルが取れた時など、最高の結果が出た時は、撮影していても胸が熱くなることがあります。
そういう経験はスポーツのフォトグラファーならではだと思います。
逆に、スクールフォトというのは、予測不能に動き続けている子ども達を撮らないといけません。大勢の子ども達を撮らないといけないので、みんな平等に良い表情を撮るというのは、難しいことだったりします。その分、良い写真が撮れた時は喜びが大きいですね。
子どもたちの世界観の中で写真を撮る
スクールフォトだからとか、スタジオの撮影だからと言って、スタンスを変えることはありません。どちらも同じスタンスで取り組んでいます。
子ども達を撮影する際は、自分の精神年齢を下げて、一緒に楽しみたいと思って現場に向かうようにしています。こちらが楽しいと思わないと、子ども達も笑ってくれないですよね。
子ども達と同じ目線でいることで、子どもたちと同じ世界観の中にいられると思っています。そうすれば、それぞれのシチュエーションに合った「良い写真」が撮れると思っています。
楽しそうな笑顔の写真、真剣な表情で作業している写真、一生懸命に先生の話を聞いている写真、どれも「良い写真」だと思うんです。
外遊び、室内保育、行事など、場面によって違う子ども達の表情を撮り逃すことがないように、シチュエーションに合わせたコミュニケーションを心がけています。そのために、子ども達との関わり方について、園の方針を必ず確認するようにしています。
子ども達に声を掛けても良いのかどうかなど、園の意向を確認した上で、できる範囲のコミュニケーションを取るようにしています。
例えば、子ども達への声掛けを許可してくださっている園では、外遊びの時など、子ども達のテンションが高めな場面では、自分のテンションも上げて話し掛けたりしています。子ども達の世界観に入り込むようなイメージです。そうすると、子ども達が良い表情をしてくれるんです。こちらも同じ目線で話しかけるので、大人だからとか、フォトグラファーだからという特別な意識をすることなく、楽しそうに集まってきてくれます。そうすると、自然な笑顔の良い写真が撮れたりします。
逆に、室内の保育中に声をかけてしまったら保育の邪魔になってしまいますから、子ども達が集中している時は、カメラを意識させないように、自分も集中してカメラを構えています。 そうやってコミュニケーションの取り方を工夫しながら、子ども達の表情が撮れると、とても嬉しいです。
30年間撮り続けてきても、自分の技術に「これでいいや」なんて思ったことがありません。それが30年間続けてこられた秘訣かもしれません。
本来ならば、人見知りで、人とコミュニケーションを取るのも苦手で、今こうしてインタビューに答えている自分に驚くぐらいです。
この30年間、カメラがあったから、様々な現場の撮影を通してコミュニケーションが取れるようになったと思っています。
最近では、屋外でモデルさんを撮るポートレート撮影の勉強もしていて、マンツーマンでモデルさんと会話をしながら良い表情を引き出す練習をしています。
「自分はまだまだ‼︎」と思う気持ちが、この30年間を支えてきてくれたんだと思います。もちろん、これからもそういう気持ちで、現状に満足することなく、腕を磨いていきたいなと思っています。
82歳、現役フォトグラファーの父の背中から学ぶもの
言葉にするのはとても難しいですね。それでも強いて言うならば、「撮らせてもらっている」と思えること自体が私の感じる「愛」なのかもしれません。スクールフォトに限らず、どの分野の撮影についても
同じ気持ちです。30年間撮り続けていても、「最高の一枚が撮れたな‼︎」と思えると嬉しいですし、撮れなければ悔しいなと思います。それがカメラの面白いところだと思います。
人見知りだった自分が、カメラと出会って、人と関わることができるようになって、喜びや達成感など、様々な気持ちを教えてもらいました。カメラには感謝しています。
ですから「撮ってあげる」という気持ちではなく、「撮らせてもらっている」という気持ちになるんです。
そんな温かな気持ちにしてくれる仕事に出会えて、本当に良かったなと思っています。
死ぬまで撮りたいと思っています。私には、それしかできないですから‼︎
私の父親も82歳ですが、現役のフォトグラファーです。今でもスタジオで証明写真を撮っています。何歳になっても写真を撮り続ける父の背中は、私にとって大きな存在です。
二十歳の頃、父を支えたいという一心でカメラの世界に飛び込み、フォトグラファーになって良かったなと、心から思っています。
私も父のように、生涯現役でカメラを持ちたいです。
フォトグラファー歴30年というキャリアを持ちながらも、現状に甘んじることなく、自らの技術を磨き続けるための努力を惜しまない植原さん。両親への思い、カメラへの思い、その全てに愛情の深さを感じることができるだろう。愛する家族のために選んだフォトグラファーという道を、今日も大切に歩み続けている。
Interviewee by Yoshiharu Uehara
HP:http://www.ueharaps.co.jp/
yoshiharu.uehara
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Interview, Text by Miya Ando
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Photo by Takashi Natori, RYUJI.K